2015年11月11日の記事
「闇と悪は別のもの」の再掲です。
親鸞上人の悪人正機説にも繋がる
とても意味深い内容になります。
「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」
とすり合わせながら、納得できるまで、
何度も繰り返し読んでいただきたい。
( )内は、私の補足です。
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2013年5月
ミコト:(人により)それぞれ闇に向かい合う力が違うのだ。
勿論本来は(闇に向かい合う力は)ある。
己の闇に向かう力のない者は、
他者の闇にも目をつぶりたくなる。
闇と悪とは別のものだ。
多くの人がそれを混同している。
闇と悪の違いを知る、分かるのは難しい。
あなたに分かる言葉で頑張って説明してみよう。
闇とは単に光りの当たっていないところ。
すべての人間は闇を持っている。
悪とは、そうであること、
つまり、
自分も闇があることを認識しないでおこう、
認識しないでいたいという心のことだ。
多くの人が自分の闇を見たくない。
自分にもあるに決まっている闇を見たくないのだ。
闇は悪ではないにもかかわらず。
闇は単に光りの当たっていないところ。
しかるに光を当ててしまえば、闇は光に転じる。
「認識の光」という言葉は、
認識こそが闇を光りに転じる方法だという意味を内包している。
もう一度言おう。
闇は単に光りの当たっていないところ。
つまり、闇は光なのだ。
同一のものだ。
完璧に同一のものだ。
悪とはその自分の事実をないと思いたい心、
これをエゴと呼ぶ人が多い。
進歩成長のための唯一の方法である闇に光を当てる、
つまり自己認識の光を闇に当てず、
闇のままに放置する。
あるいは放置してしまいたい、しておきたい心。
それが悪、エゴだ。
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(世間一般に言われる)悪人とは、
自分の内側の闇を認識している人。
(世間一般に言われる)善人とは、
自分の内側の闇を認識していない人。
したくない人。
どうしても善人でいたいという気持ちがあると、
その途端に悪人になってしまう。
ということになるとミコトは言っていると思う。
神は、進歩成長を阻害するものを悪と定義づけている。
「認識の光」という表現は
シュタイナーによるもの。
今日の写真は、
闇が単に光当たっていないところを
イメージしていただくための写真
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