【啓示について】
啓示は、
通常もたらされるメッセージと
同じなのか、
違うのか、
違うとしたら、
どう違うのか、
私なりに考えてみた。
啓示とは、
魂の深遠にまで届く
神からの
力強いメッセージ。
生涯決して忘れ得ないメッセージ。
必ず、
愛を伴ってやってくる。
私たちは
私たちの内側の深い部分に、
愛を神的愛を有している。
地上に降りるに当たって
忘れてしまってはいるが、
決して失われることはない神的愛。
それを
もう思い出す時だよと知らせようとするのが、
啓示。
無視しても
無視しても、
何度もそれを受けた時の
ことを思い出すなら、
それは啓示。
啓示は忘れることはできないが、
無視し続けることはできる。
なぜなら、
私たちには自由意志があり、
愛を伴ってやってきた啓示を
エゴで判断し、
選択しない自由があるから。
私の言葉で言えば、
啓示とは、
高次の次元から
愛を伴ってもたらされるもの。
あなたの内側の
神的愛と呼応するもの。
だから、
私たちは、
メッセージを忘れてしまうことはあっても、
啓示を忘れることはできない。
すでに私たちが
忘れているだけで知っている、
愛の本質、神的愛と
理屈を超えて
呼応するから。
啓示を受けたということは、
神が私たちと
縁を持とうとしたということなのだ。
それに応えるか否かは、
あなたの自由意志で決めればいい。
自由意志を与えたのは、
神である以上、
神はそれを許すから。
ちなみにここで言う
神的愛のことは、
如来蔵とか、グノーシスetc.
宗教によって様々に
言い換えられている。
更に言葉を連ねれば、
どうも、
私たちの深部に神的愛に及んだ啓示は、
その途端には、
その人を変え得なくても、
時を経て、
時を得、
最善のタイミングで、
私たちの本望に通じる道を示すスイッチ
として作動することはあるだろう。
そんな風に思考してみた。
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