「だから分かるだろう。
私以外の神々が、いつだってあなたの最善の横糸であろうと、
あなたに関与してきたことを。
そう、神々の喜びとして、かぐや姫のサポーターであろうと。」
そうなのだ、そうなのだ。
私はミコトと双方コンタクトをしていたのは、
もとよりだが、
ミコトでない存在とコンタクトしているのでは
と感じることがあり、
それをミコトにただしたこともあった。
ミコトは意識体だから私の目には
もちろん見えないが、
私はミコトの意識体の意識、
いわゆるエーテル、空と呼ばれる精妙なる
存在を感じ得る感覚が増している。
果たして、その通りなのだ。
私をサポートしていたのは
ミコトだけでなく、
ミコトに同等あるいは準じる神々もだった。
同様に、
学生指揮者をしていた時も、
同期の仲間はもとより、
先輩、後輩のサポートを
いつも感じていた。
部員全員と向き合って指揮棒を振る時は
もちろんのこと、
背中を向けている時も、
そして苦難の中にいる時も、
部員全員の私への変わらぬ信頼の想いをいつも感じていた。
私はその信頼の想いに応えたいと思っていた。
部活に不可欠な信頼の輪を壊したくないと思っていた。
ここにアナロジーを感じる。
当時の部活の部長と、私学生指揮者の在りようについて、
ミコトが伝えてきたメッセージがある。
1年ほど前にもたらされたものだ。
すべての方に、役立つメッセージと思われるので、
今日はそれを紹介したい。
゜+.――゜+.――゜
ミコト:宇宙はシンフォニーだ。
あなたたち家族はカルテットだ。
美しく奏でるまでには練習が必要だ。
ミコト:学生指揮者の時のことを思い出しなさい。
どれだけ部員1人1人を大切に思ったか。
その部員が上手いか下手か以前に、
存在そのものを大切に思った。
部長と学生指揮者。
誤解されることもあったが、誤解されるに任せたこと。
結果部活を離れて行く人もあった。
留まり、自ら誤解を認識した人もあった。
どちらが善で、どちらが悪ということはなかったろう。
部長である彼女、学生指揮者であるあなた、
あなたたち二人は二部合唱だ。
どんな時も、美を見ようとしなさい。
必ずある美を。
美を見出そうとすれば、見出された美は、
歓び勇んであなたと共にあろうとするだろう。
それがすべての人に敬意を表するということだ。
一寸の虫にも五分の魂。
美によってあなたは光輝くだろう。
自分はこう思うと表明したら、
あとは好きにさせてあげなさい。
それが中心にいさせてあげることだ。
それが自由を与えるということだ。
地球上のすべての人が、自分の中心にいる瞬間があったなら、
その時、宇宙は美しいシンフォニーを奏でるだろう。
自分の人生に責任を取るということは、
自分の中心にいるということだ。
自由意志なくしては自分の中心にいられない。
なんとなれば、人は皆、中心を異にするからだ。
故にみんな違ってみんないい。
あなたは、144面の中心にいなさい。
どの面を指して、「これがかぐや姫だ。アンズだ。梅木だ。」と
言われても、それはその人にとってのあなたの真実を指している。
だから受け入れなさい。
自分が見てもらいたいように見てもらおう、見てもらいたい
と思うのはよしなさい。
それは相手の領域で起こることだから。
どう受け止められても、
あなたはただ輝いて楽しくしていればいい。
自分が心地良く感じることをしていればいい。
自分の領域を心地良いものにするのは、自分の責任だ。
それを、そう、愛を基にしてなしなさい。
宇宙のシンフォニーを奏でるコツはシンプルなんだよ。
これだけをすればいい。
しかし、しかし、難しいことだ。
だから根気良くやりなさい。
ここまで達しようと思わず、
ただ、ただ、ひたすら、瞬間を重ねなさい。
愛を基にして自分の中心にいる。
真実自分の中心にいられた時のみ
愛と自由が忽然と姿を現し、
愛と自由が表裏一体であることを知るだろう。
゜+.――゜+.――゜
多分、これも偶然ではなかったのだろうが、
部活の練習が終わって、帰路に着く方向が、
部長と私は同じだった。
私の降りる駅で彼女も降り、
ホームのベンチで時間を忘れて語り合った。
ホームのベンチは、
事務トップの彼女と技術トップの私が、
互いの視点からの偽りのない部活動に対する想いを
提示し合う場だった。
今思えば、あれは合一点に立とうとする姿だったのだ。
あの頃はただただ、純粋な思いのみで、
部活動の場を部員全体のための居心地の良い場に
することしか私たち二人は考えていなかった。
ミコトの言葉「あなたたち二人は二部合唱だ」
というのは、そうした意味だ。
私たち二人はホームのベンチで美しい二部合唱を
奏でるにはどうしたら最善か、語り合ったのだ。
そして、この在りようは、
私が大切にしている言葉、
「部分は全体のために、全体は部分のために」
を具現化した在りようなのだ。
もしも、今もしも、当時の部長である彼女が、
この記事を読んだら、思い出してくれるだろう。
そして、
「ああそうだ、その通りだ。」とつぶやくだろう。
あの頃の彼女の人並み外れた誠実さは、
今も失われていない。
私にとっての生涯の友だ。
写真は当時の部活動の
同じ釜の飯を食った仲間との写真。
青春の真っ只中。
あらゆる感情の真っ只中。
全力投球の日々。
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