今日はちょっと哲学的。
2013年5月
大杉栄の「反逆の精神」を読む機会を持った。
私が思うに、
大杉栄の言う「反逆」とは、
外側に合わせてきた自我(第一の自我)が
内側の真実の自我(第二の自我)に座を明渡す
みたいな感じなんだけど…。
本当のところ自分のしたいことは?
そもそも、何がしたくて、
今、ここにいるんだっけ?
と、とことん自分に質問を
繰り返し浴びせかけることは、
人生の醍醐味の方向に手を伸ばすこと。
あなたのやりたいことは
あなたに聞くしかない。
「反逆の精神」を読んだ時、
天(ミコト)からの示唆を感じつつ、
しかし、私が書いたメモがあるので、
以下に紹介する。
訳わからないメモと思うかもしれないけれど、
もしも、
なんかひっかかったら儲け物ですよ。
゜+.――゜+.――゜
2013年5月
「反逆の精神」
自分の命(使命)のために自分の命をかける。←究極の利己主義。
それが、世界のためにできる最高、最善、最良のこと。
ひたすら自分の中心(点であり、面積でない)。
反逆することによって、到達可能。
反逆しなければ到達できない。
達成できない。
パラドックス、二律背反、矛盾を突き進む。
その時、この二元の世界を凌駕し統合できる。
つまり、善悪を超えられる。
自分が悪人であることを超えられる。
悪人であることを認めて初めて超えられる。
自分が悪人であることを怖れない。
怖れなければ超越できる。
自分の命(真実の自我/シュタイナーの言う第二の自我)
神の一雫として生まれてきた自覚。
自分は世界の中心である。
「反逆」これは、外側に過ぎない。
内側の命のために生きる。
反逆こそが、生きること。
悪人であっていいという思いが善(真ん中の道)に通じ、
輪が完結する。
悪人と呼ばれることを怖れないだけの精神の筋力を鍛えよ。
悪人と呼ばれることを怖れるから善人であろうとする。
悪人と善人を振り子運動のように行き来する精神(第一の自我)でなく。
動機のみが問われる。
反逆するわけだから、
もちろん、命がけ。
「反逆」を良い悪い(二元論)で見ようとしているうちは、
真ん中の道は見えてこない。
・・・・・・・
ここで言っている、
「点」とは、
私がこのブログ何度か書いている、
ミコトと私をジョイントしている赤い留め金のことだ。
当時は、赤い留め金のことは念頭になかったので、
「点」と書いてある。
この時、私は、微力ではあるが、
アナーキストになるのだという思いを込めて、
以下の詩【私はタンポポ】を書いたのだ。
私はタンポポのように生きたいと思ったから。
゜+.――゜+.――゜
【私はタンポポ】
私はタンポポ
ちっこいアナーキスト
根っこをうんと地面に深く
自由に好きに真っ直ぐ張って
黄色いお花をお日様に向け
自由に好きに思い切り咲く
踏まれたってかまやしない
目に留まらずともかまやしない
私の命は私のもの
自分のために命を生きる
それが世界に最良のこと
私は私で あなたはあなた
あなたは私で 私はあなた
ならばそれで輪が閉じる
私はタンポポ
ちっこいアナーキスト
゜+.――゜+.――゜
大杉栄の「僕は精神が好きだ」という文が好きだ。
抜粋します。
「僕は精神が好きだ。
しかしその精神が理論化されると
大がいは嫌になる。
理論化という行程の間に、
多くは社会的現実との調和、
事大的妥協があるからだ。
まやかしがあるからだ。
精神そのままの思想は稀だ。
精神そのままの行為はなおさら稀だ。
生まれたままの精神そのものすら稀だ。
僕の一番好きなのは、人間の盲目的行為だ。
精神そのままの爆発だ。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。
そしてさらにはまた動機にも自由あれ。」
・・・・・・・
最後のところ、私は「動機は愛であれ。」と書きたいな。
自分をまやかしたまやかしの中で生きていたくない。
その思いは大杉栄とそっくり同じだ。
だから私は、正面から自分と対峙する。
今日の写真のイメージは、
「どんなにあなたの内側の庭に、
雑草が生い茂ってしまっていても、
必ず真っ白な花(第二の自我)は、
あなたに見つけられるのを待っている。」
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